
さて、まだ気持ちうまくまとめられないまま書けるかな?
卒業旅行でたどり着いたのはタイ・チェンマイ。
4年前に自分を置いていった母に会いに行ったさよは
ゲストハウスで働く母京子と再会するも
ビーという少年と一緒に暮らしている母をみて
部屋にこもってしまう。
何でワタシを捨ててココで暮らしてんねん?
その男の子はなんやねん?
ごくごく当たり前の反応ですな。
・・・・しっかしまあ
ここのひとたちはさよが怒ってても悩んでても
暖簾に腕押しというか
何言われてもニコニコ。ってかあまりこたえてない。
風のようにさらっとかわし、でも何気ない言葉やふるまいが
母娘のわだかまりを解いていきます。
市尾くんにも菊子さんにもビーにも
それからもちろん京子さんにも
胸に抱えるものはあるんだけど
そこいっさいカットです。
きっといろんな思いがあるはずなんですが
物語はとてもとても淡々と過ぎていきます。
かもめ食堂でのミドリさんや
プールでのさよちゃんは
うちらがフツーにもつ感情を台詞でいうてますが
この映画とにかく言葉が足りなすぎて
おそらく愛を感じるとこまではいかないでしょうね。
原作コミックを映画館の売店前で
なんとザーッとホント4,5分で
問題の箇所とあと少しパラパラとナナメ読みしました。(笑)
ワタシにはビーを捨てた母のほうが
よっぽど残酷でしたが。
映画では出てこないんですが
市尾が必死で探していたビーの実母が見つかったシーン。
コミックのほうでは
「10歳になったんだからもう大丈夫よね
自分で働けるでしょ?」
自分の息子が生きている、誰かの世話になって
ちゃんと暮らしてた、
再会の喜びも市尾君たちへの感謝もなくて
多分ワタシの子だと思うけど
生活できなかったから捨てたってそらないでしょ?!
あげく上記の台詞です。
それこそだったら産むな〜〜ですやん。
もしそれが仮に最悪の想像で納得いかないレイプの末に
妊娠した子供でおろすこともできなかったとしても
それでも臨月までの10ヶ月に愛情わかないか?
ストリートチルドレンの現実みたいなもんがあって
この辺も日本とは違うのよね。
で、ビーは
市尾、あのひとはお母さんじゃないよ
うちへ帰ろうっていう台詞につながっていくんですが
そこスパッとカットされてます。
もしかしたら見落としてたかもしれませんが
映画ではさよはお父さんの顔をしらないみたいだったので
シングルマザーです。
で、幼稚園の入園も熱出したときも
母はおばあちゃんに子供まかせて仕事でした。
で、18になったときに
だってそうしたかったんだもんで家を出てしまいました。
彼女の母に娘を託して。
ただ、映画のラストに娘に渡した手作りショールに
ほどこされた刺繍が
コミックではキーアイテムになっていて
実はお母さんはそばにいた、
そばにいなくてもよりそってくれていたと
さよが気づくくだりがあります。
・・・だからね、あまりに説明不足だってば〜と。
鍋をはさんで親子が心情を吐露するシーンも
コミックではまだ台詞が続きます。
ただ、正直に思いをぶつけたことで
甘えるのが下手な娘と
愛情表現も自分を語るのもぶっきらぼうで
伝わるもんも伝わらないオカンは
とりあえず歩み寄ります。
・・・いや絶対分かり合えないとは思いますが
なんというかこの人はこういうひとだからという意味で
受け入れちゃったというかなんというか・・・。
で、
その後の市尾君の台詞で
食べっぷりがいいとこまで母娘似てる、
につながっていきます。
楽しくなければ二人っきりで鍋つついて
4人分だった夕食のほとんどを
平らげたりしないでしょ?きっとうまくいったんだと
市尾くんも見てるこっちもそこで想像したんですが。
ココロが一人歩きして瞬間移動する菊子さん(!)も
びっくりしましたが、
なんていうか、やっぱり
かもめやめがねと同じように
チェンマイを舞台にしても何かしら
時間の流れが違う、人の感覚が違う、
気がつけばそのマターリ感に染まってしまってる。
人の気持ちも変わってくのかもしれず・・・。
うちには18と21の娘がいます。
もうここまで大きくなると親子じゃなくて「同志」です。
人生の先輩としては甘いわアホ〜て思うことは多々あり
母としては彼女たちが40になろうが50になろうが
いくつになってもあんたらは子供だ〜いと思いますが。(笑)
その反面ものすごくするどいツッコミされて
絶句することも、アハハハハ・・・・。(立場ないやん)
反抗期があり〜の、思春期があり〜の、
逆らうわけではないけれど
何考えてるのかさっぱりわからん時期があり〜の、
かと思うと、とにかく何を言うても耳を貸さずに
やたらめったら食ってかかる時期がありました。
いや、次女はまだそこから抜けきれてないな。
でもこれって親離れ子離れに必要なバトルなのかもと
最近は感じます。
18といえばさよちゃんがオカンに置いてきぼりを
食らった年齢と重なります。
・・・要は甘えたいときに甘えられず、
逆らいたくてもいつもおらへん、
そんなオカンへ思いのたけを全部ぶつけられたら
彼女はオッケーだったのかもしれません。
置いてったことそのものよりも
ちゃんとこっち向いて話きけやと。
少しは自分を語ってくれやと。
ただしこれはぐれないことを前提とした話。
彼女が出来た娘なんですよね。
で、そのことをオカンはわかってた。
・・・いや、
親が思うよりずっと
子供って幼いときから人間できていて
子供だからと子供扱いするから気がついてない
それだけのことかも。
澄んだ瞳で何でも見てる、感じてる。
ただ、子供は子供らしくふるまっていて
かまってくれるオカンに甘えたいだけなんであると。
あくまで想像の域をでない話ですけどね。
もちろんこれはすべての母娘に当てはまる話ではないので
納得いかない方はいっぱいおられるかもしれませんが。
あ〜やっぱりまとまりませんでした。
また後日書き直すかもしれませんがとりあえず。
タイのまったり感が出ればなんでもいいんだけど、
なんかお話がないと
さすがに映画にならないからって、
とってつけたような感じが否めませんでした。
タイの人がこの映画を観たらどう思うんでしょうね。
タイの、というよりかはおそらく
小林、もたい、加瀬の3人が作り出すまったり感。(笑)
この辺は監督が変わっても
ロケ地が変わっても普遍だったみたいで。
ただ、そのままマターリだけだすと
二番、三番煎じになる。
で、なにやら一個ドラマチックなことを
入れようとしてコケた感が否めず。
何より残念だったのは、
かもめ食堂のときに感じた、
南極料理人でも感じた、
あの「お願い、それ食べさせて〜〜〜」な
料理がひとつもなかったこと。(爆)
コレが一番ショックだったかな。
「あ、おいしい」って台詞を入れなきゃいけない
段階でアウトです。絵と音だけで伝わらなかったってことですから・・・。
なるほどー、原作のところを読ませていただいて、やっと納得しました。
確かに大事なところをカットし過ぎかもしれません。
僕自身は京子にどうも感情移入しきれなかったんです。
けれどAgehaさんが書いているエピソードが入っていたら、ちょっと変わったかもしれません。
大森監督は原作の映画化は非常に巧い方だと思うのですが、本作はちょっとうまくいかなかったのかな。
コミックのエピソードを映画に盛り込んでしまうと
マターリ感が出なくなる。
この映画のかもし出す雰囲気は
明らかに「かもめ食堂」と同じ路線を狙ってるのが
ミエミエなんですよね。
もっとも、こちらとしては、それをあてにしていって
その部分では予想通りのイメージで
そこは別に二番煎じでも三番煎じでもオッケーだった。
ただ、それじゃ芸がないから
親子の葛藤入れてみました・・・はないよなと。
本来感情をぶつけ合うようなシーンは
この映画の雰囲気に合わないし
誰かの言葉に感動したり涙したりっていうシーンを
はさめないのにどないすんねんという
脚本上の矛盾をものすごく感じました・・・。